2015年12月4日金曜日


吽形

阿行

大神輿殿

六所稲荷

水神社

龍神大神社

六所ひぐるま弁天社

鳥居

社号標


データ

別名:
旧社格: 郷社
創建: 1164年
本務社:当社


由緒

人皇第十代崇徳天皇の頃、出雲地方よりこの地に氏族が移住せられ、この地を「柳田郷」と名付け、氏族の祖神たる櫛稲田姫命、素戔嗚命、大己貴命(大国主命)を守護神とし「柳田大神」と称しました。御創建は崇徳天皇甲申の歳と伝えられております。
大化改新後、国の行政も次第に整い国司の制度が始められてゆく中に元正天皇の御代養老二年(七一八年)閏四月八日石神台山頂より、奉遷歴勅を以て相模国八郡神祇の中心たる、相模国の総社として現鎮座地に遷座いたしました。
平安時代に入って相模の国府(今の県庁)が現在の大磯町国府本郷馬場公園付近に置かれると柳田郷の地名も相模の国府と称されるようになりました。
以来、国司(現在の知事)は、任国に着くとまず神拝といって国中の主たる神々を巡拝し国幣を頒つ制度であったが、巡拝は大変な日数と費用・人員を要するため主たる神々の御分霊を合わせ祀る社すなわち「総社」を設け日々の祈願所としました。
相模国の場合、柳田大神に、一之宮寒川神社、二之宮川勾神社、三之宮比々多神社、四之宮前鳥神社、平塚八幡宮の分霊を合わせ祀り相模国総社の成立を見ました。又、六ヶ所の神社を併せ祀ることから六所神社、また国府六所宮とも称されるようになりました。相模国府祭(神奈川県無形民俗文化財)もこの時代から「お祭り」の性格を持つようになったと思われます。
そして、鎌倉時代になると源頼朝公の崇敬誠に篤く、吾妻鑑によると治承四年(二八〇年)十月十六日の条、平氏の大軍が、平維盛を大将として富士川に攻め寄りし時の戦勝祈願を始め、奥方の北条政子の安産祈願等たくさんの記録があります。
戦国時代には、戦国大名北条家の崇敬も大変厚く、氏綱公が永正年間(一五〇一〜一五二〇年)に社殿の御造営、又四代目左京大夫氏政公が御本殿の御修復を行いこの本殿が現在のものでございます。
天文十三年(一五四四年)十二月二十三日付けの北条氏康寄付状があり、相州六所領六十五貫七八文とある。又、徳川家康も崇敬の念篤く天正十九年(一五九二年)武運長久の祈願として六所領五十石の寄進の御朱印状があり、三代家光公は慶安元年(一六四八年)国家安全祈願として五十石の御朱印状があり、以後歴代の将軍の特別なる祈願と六所領の寄進があり明治に至っております。


御祭神



御朱印



関連リンク

公式HP


場所: 神奈川県大磯町国府本郷935


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