2016年4月8日金曜日


吽形

阿行

本殿

境内社

境内社

金刀比羅宮

八坂神社

鳥居


データ

別名:
旧社格: 村社
創建:
本務社: 伊勢原大神宮


由緒

当社は、「延喜式神名帳」に記載されている相模国13座の1社で、大住郡127ヶ村の惣社と言われていた。創建年代は不詳なるも、紀元前655年とも言われている。糟屋住吉の大神として、又の名を「大住大明神」と呼ばれ、部門・武士を始め万民の崇敬せられたる古社である。江戸中期頃までは、別名「糟屋八幡宮」と呼ばれ名社の名を謳われた。古社たる由緒には、「汐汲みの神事」があり、更に雅楽面3面の古面と、源朝臣・頼重施入の経巻・上杉定正が寄進の大般若経の写経の伝来があり、境内の釣鐘堂には、至徳3年(1386年作・県重要文化財)平秀憲が寄進の銅鐘が、今でも時を刻んでいる。京都宇治にある黄檗山万福寺7世で、中国の福建省・泉州府・晋江県からの渡来僧、悦山道宗筆による「八幡宮」の扁額(元禄初期の作)があり、本殿前の狛犬を寄進した行按・行白も臨済宗・黄檗派の僧で、一時期、別当神宮寺と共に黄檗派との関係が深かったと思われる。
当神社のこの地は、千鳥ヶ城と呼ばれる要害が後北条氏の滅亡まで、社地の続きに存在が最近の調査で認められた。鎌倉時代に源頼朝の家人、藤原鎌足・冬嗣の血を引く糟屋庄の地頭「糟屋藤太左兵衛尉有季」の館跡と言われていて、高部屋神社を守護神として社殿を造営した。室町時代に入ると、将軍足利氏の家人団・上杉一族の関与があったと思われている。糟屋氏・上杉氏と関わった武士達の興亡をのせてきた高部屋神社も、後北条氏を迎え、相模国風土記稿に載る、天正9年(1581年)5月10日八幡宮境内の3ヶ条、松山城主・上田能登守長則の禁制(法度)が知られている。又、天文20年(1551年)に地頭・渡辺石見守が社殿を再興し、天正19年(1591年)徳川家康から式内社の名社あることで、社領10石を寄進し、朱印状を頂いた。社殿は、正保4年(1647年)に本殿を再建されたが、関東大震災で倒壊し、昭和4年に柱・彫刻・正面扉等をそのまま生かし再建、拝殿は、慶応元年(1865年)に再建され現在に至っている。尚、拝殿正面の頭上に、山岡鉄舟の筆による「高部屋神社」の社号額が掲げられている。


御祭神



御朱印



関連リンク

Wikipedia


場所: 神奈川県伊勢原市下糟屋2202


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