2014年9月20日土曜日


鳥居

吽形

阿行

大石稲荷社


データ

別名:
旧社格:
創建:
本務社:


由緒

当社の由緒については詳ではない。たゞ新編武蔵風土記に載る所によると、元長津田村大石大権現社と称し在原業平朝臣をまつったものと伝えられている。 万有百科大辞典によると、業平朝臣は平安朝前期の人(八二五〜八八〇)平城天皇の孫にあたらせ、古今の和歌の先駆をなし、美男で放縦な性格を持つと記されて居る。 御神体はだ円形の自然石で文字等の刻込は全くなく現在本殿に四角な台石に下部をはめ込んで立ててある 台石の上に現れている部分の高さは一三五米、中央部の一番広い所のいかにも均衡の取れた、形のよい石と田奈郷土誌にも記されている。 又、武蔵風土記に神石は昔武相の国境にあつたが、武蔵、相模、両国の百姓己々其の帰属を主張して譲らず遂に争いとなつたが神意により武蔵に鎮座したものと言われる。その神意とは、古老は語る神石を積んだ車は曳けども押せども相州方面には動かず、而して、武州方面には易々と動いたと言う。 神石の在ったところと称する地点を元石と言い、今尚その地名が現在して居るのである。 古老又曰く、業平朝臣は此の地で、その討手か又賊かに取りかこまれ周囲から火を放された。 火勢ようやく衰えたあとには人影更になく、其所に残されたものは大きな丸石たゞ一個、以上が神石にまつわる伝説である。従ってその真疑については問う所ではない。 下つて元禄七年五月、領主岡野平兵衛等社殿を修復し、更に宝暦二年六月社殿を造営した旨、現存の棟札に記してある。 大正十二年五月、神明社、稲荷社を合し、同年九月一日関東大震災により石造本殿が崩壊したので宮内省より御用材を賜りて再建したが、早急のため粗末であったので、後日現在の蔵造りに建替えをした。 又此の当時まで境内に業平竹と言う竹林があったが今はいずこにもそれらしきものは見当たらない。 昭和二十一年八月一日宗教法人法により神社本庁所属の宗教法人を設立宗教団体として届出て今日に至る


御祭神



御朱印

なさそうです

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場所: 神奈川県横浜市緑区長津田町2322


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