2014年9月21日日曜日


吽形

阿行

天神社

後三社

 

鳥居


データ

別名: 五所宮
旧社格:郷社
創建:
本務社: 当社


由緒

五所八幡宮略縁起によると、後白河天皇保元二年(一一五七年)、比叡山延暦寺の高僧慈恵大師の門人なる僧義圓東国行脚の折、当町雑色村子の神の祠(当社の元宮と云われる)に一夜の宿を借り、霊夢により、白鳩に導かれて現在の地「竜頭丘の杜」に至り、ここに現れた童子(御主祭神 誉田別尊)の霊言に従って勧請したと伝えられる。雑色にはこの時義圓の挿した杖が発芽成長したとされる樹齢八百数十年の槐の大木(神奈川県指定天然記念物、神奈川の銘木一〇〇選)があり、又例祭時の楽人は雑色の青年数名が奉仕するという慣わしがある。
五所宮の由来は、欽明天皇の御代豊前國(大分県)宇佐に初めて八幡宮の勧請有りしより、次第を経て第五に当る故と云ふ。一に宇佐(宇佐神宮)、二に男山(京都 石清水八幡宮)、三に鎌倉(鶴岡八幡宮)、四に河内(大阪 壺井八幡宮)、五に当社と。
創建当時は源頼朝祈願所の一社に数えられ、頼朝に仕えたこの地方の豪族、中村荘司宗平が当社を守護神として深く尊崇し、以後その三男、土屋三郎宗遠、娘婿曽我太郎祐信両家より祭典の供物を納めるを常とした。
文明元年正月火災にかかり雑色村在住の神官引地氏辛うじて御神体のみを御動座したという。故に是以前の諸記録、神宝等皆焼失し詳細を伝えずとされる。同十三年新殿御遷宮。
その後も小田原北条氏を始め武家方の崇敬を広く集めたといわれ、神宝として曽我五郎時致寄進の弓、脇指一腰、春日局の子で江戸幕府年寄(老中)を務めた稲葉丹後守正勝寄進の太刀一振、甲冑一領他多数有りしと伝わるも弓一張以外は昭和の敗戦後盗難により消失した。
亨保七年本殿再建御遷宮。明治六年郷社八幡神社となる。
又この頃神仏分離令に伴うある誤解から、参道階段の中程にあった荘厳なる随神門を廃棄したと伝わる。明治十年及び四十一、四十二年村内十七社の祭神を合祀「諸成就の宮」と呼ばれる。
当社の秋祭(九月二十三日)は是を記念する祭礼である。又同四十一年神饌幣帛料供進神社に指定される。
昭和四十三年献幣使参向指定神社となる。


御祭神



御朱印



関連リンク

Wikipedia


場所: 神奈川県足柄上郡中井町遠藤84


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