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別名:
旧社格:
創建: 1100年代
本務社: 当社
この附近は、源頼朝が治承4年(1180)以仁王の遺命を受けて平家追討の挙兵をした処である。このとき、相模の名族三浦党の岡崎四郎義実や、その子(佐奈田)与一義忠も参陣した。しかし、急の挙兵のため、頼朝軍は僅か300であり、攻撃の平家軍は大庭景親以下3000であったため頼朝軍は忽ち苦戦となった。このとき真田与一は、15騎で豪雄俣野五郎の75騎と戦い、両将組討ちとなったが与一が勝ったか俣野は組み敷かれ、与一はこれを討とうとしたが刃に付いた血が固まり短刀がさやから抜けず手間取ったうちに駆けつけた敵のため25才の命を花と散らした。
与一の郎党文三家安は、主の討死を聞き群がる敵中に飛び入り主人の跡を追い討死した。この後、討死の地には、与一塚が建てられ与一を祭神とする佐奈田霊社が祀られた。
また、その先100mの処には、文三を祭る文三堂があるが共に今日県指定史跡となっている。霊社下の畑は、組討ちした処と伝えられねじり畑と呼ぶが、このためかこの畑の作物はすべてねじれてしまうとも伝えられる。
頼朝は、建久元年(1190)伊豆山権現参詣の帰途両基を訪れ、無き両人の忠節をしのび涙を流したといわれる。
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