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別名: 大塔宮
旧社格: 官幣中社
創建:
本務社: 当社
御祭神は後醍醐天皇の皇子にて大塔宮と申し上げる。後醍醐天皇のために御尽瘁し、建武中興を成しとげ、その折の御功績により兵部喞征夷大将軍に補せられたが、やがて足利尊氏と対立。建武元年(一三三四)に捕えられ鎌倉に護送され、東光寺(廃寺)裏の土牢へ幽閉された。「中先代の乱」に際し、足利直義の命をうけた淵辺義博の手で弑された。御年二十八歳であられた。
明治天皇は明治維新の鴻業を成就し大政なるや、明治元年七月、京都聖護院に神座を設け親王を奉斎せられ、同二年二月、親王御終焉の遺跡と云われる現在の地に、社殿の造営を仰せ出され、同年六月、鎌倉宮の宮号を賜い、同年七月社殿竣成するや、二十一日に御鎮座の儀が行われ、二十三日には勅使が参向し、例祭が執り行われた。明治六年四月十六日、明治天皇の行幸親祭があらせられ、同年六月官幣中社に列せられた
本殿背後に親王が幽閉されていたと伝えられている土牢や、親王の首を打ち捨てたという御構廟などの遺跡がある。
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