2016年2月8日月曜日


吽形

阿行

鳥居


データ

別名:
旧社格:村社
創建:
本務社: 鶴嶺八幡宮


由緒

往古、相模国高座郡は十三郷一駅からなりたつ、その内茅ヶ崎地域は、大葉 渭堤 河會の三郷なり、当下町屋は河會郷に属す。
当地の古老が伝えるところによると、神明大神の境内には平安時代の陰陽師、安倍晴明(921〜1005)が東国へ下行のおり
喉の渇きを癒した清水が湧き出ていた、名付けて「清明井戸」と称す。亦、当境内より西約二百米には、国指定史跡相模川橋脚あり、
これは鎌倉幕府の有力御家人、稲毛三郎重成が亡妻供養の為相模川に建久九年(1198)架橋したもので大正十二年(1923)九月一日関東大震災のおり出土したものである。
さらに、同時代鎌倉権五郎景政の曾孫、大場平太景能この地に住み懐嶋権守景能と号す。この頃より開発が進み小集落が形成され、順次村落が形づくられたと推測される。
景能の死後息子の景廉は、和田の乱 建保元年(1213)和田方に味方し討死、戦い後 新規の地頭に山城四郎兵衛尉(二階堂元行)が所領す。
康正年間(1455)は建長寺、西来庵領たりこの頃 大神宮を勧請したものと考えられる。
大神宮は寛正年間(1460〜1466)創立と伝えられるが 詳らかでない。北条氏分国の頃は伊勢八郎知行す役帳曰く八郎殿百貫文徳川家康 江戸入城後、当地は幕領と旗本領となり、馬場儀兵衛が采地なり。
亦、加々爪氏知行目録によれば、古彼家の知行なり、土佐守直清の時天和元年(1681)家絶たり、寛文六年(1666)成瀬五左衛門重治検地す、村高一四八石八斗二升四合、戸数三十八戸。
東海道往還の人々は当地に宿泊し、当地も繁栄を極めていた、当大神に対する崇拝の念を抱いたと伝えられている。
「風土記」には、神明宮、山王社、以上二社共村の鎮守、柳島善福寺持。
「高座郡神社界誌」には天照大神、大山咋命、由緒不詳 明治元年(1868)村社に列す。


御祭神



御朱印



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場所: 神奈川県茅ヶ崎市下町屋1-6-19


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